1970年。今年以上に、大阪万博が盛り上がっていたころ、日本列島を南から北へ縦断する家族がいた。山田洋次の『家族』は、長崎から北海道まで、列車に揺られ、ときに海を渡りながら、北へ、北へと進んでいく。
車内には新聞をめくる音とタバコの煙(当時はまだ車内で喫煙できた)、断続的に響く車輪の軋みと汽笛の音。人々は会話するでもなく、ただ窓の外を流れる景色を見つめている。車内はざわついているのに、世界が静まっていくような旅の感覚。誰かを亡くしても、物語は足を止めない。ただ移動の流れに溶けていく。その淡々とした時間に、なぜか胸をつかまれる。
忘れられないシーンがある。旅の途中、家族が万博会場に立ち寄り、雑踏の波に押されながら歩き続ける。その人ごみにカメラも紛れ込み、彼らを追っていく。押し寄せる現実のただ中に、思いがけず小さな現実が置かれる一瞬。現実とフィクションがにじむ時間が、この映画を特別なものにしている。
山田洋次は、ずっと旅を描いてきた。寅さんシリーズもそうだし、ロードムービーの傑作もある。『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』、そして『家族』。どれも、移動することで人が変わっていく物語。その真ん中には、いつも倍賞千恵子がいる。
『PLAN 75』で、半世紀後の倍賞千恵子を見て、不意に息をのんだ。彼女がスクリーンに現れるだけで、映画はその人の生きてきた時間をまとってしまう。「その人の眼で世界を経験する」ような感覚。この人を撮るために映画がある──そう思った。