ぎんなんを口にはこぶ。居酒屋のぎんなんすべてを食べ尽くしたこともある。はこぶ時は箸でつまみ、あらかじめ塩が振られていればそのまま、なければ小皿の塩をつけてから口にはこぶ。
香ばしく焼けた表面を噛むと、中のやわらかな部分が舌に触れ、独特の旨みが口いっぱいに広がる。そのタイミングでビールを飲む。このループを繰り返しているうちに、余計なことを考えなくなっていく。旨みに意識が吸い込まれると、話し声がすっと遠のいて聞こえる。実際、「全然聞いてなかったでしょ」と言われることがままあるので、ときどき、噛むタイミングで相槌を打つようにしている。
いつだったか、向かいにいる人が、ぎんなんを口にはこぶ所作が見事だと感心したことがあった。A地点からB地点まで、小さなものをはこぶだけの動きが、柔らかく、どこにも無駄がない。「何か球技をやっていたの?」と聞くと、「バドミントン」という返事があった。ぼくが得心したような顔をしていると、「なんで?」と聞くので、「なんとなく」と答えた。
球技を熱心にやっていた人の所作には、何かしら流れるような滑らかさがあるように思う。対象となるものに、視線と重心と身体の動きを瞬時に合わせていく。その動作の繰り返しが、ぎんなんの粒を口にはこぶという日常のほんの小さな動きにも、自然とにじみ出るのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、「また心ここにあらずになってるよ」と指摘を受けた。ぼくは球技には向いていない。