星新一の「ボッコちゃん」という短編小説がある。バーのマスターが作った、美しい女性アンドロイドの話だ。彼女は客の言葉をオウム返しするだけなのに、その正確さ、揺らぎのなさゆえに、多くの男たちが恋をしてしまう。完璧であることが、人を惹きつけ、そして壊していく。
僕の知人にも、ボッコちゃんと呼びたくなるような人がいる。仕事は正確で、約束は必ず守り、返信は異様に早い。早朝でも即レスだ。会話の論理にも隙がなく、まるでプログラムされたよう。
ただ、僕が気づいた癖がひとつある。
だれかの意見に深く同意するとき、彼は二度うなずく。一度目より、二度目のうなずきが少しゆっくりしている。「本当にそうだよな」と自分に確認するように。
その二度目のうなずきの瞬間、わずかに隙を感じる。家具を組む時に作る少しの隙を「あそび」という。木材の伸縮に備えた、構造上必要な余裕だ。それを「あそび」と名付けた日本語の絶妙さ。完璧に見えるものほど、実は余白を必要とする。
ほんのわずかなためらいや、確認の間(ま)があることで、「一緒に考えている感じ」が生まれる。彼の仕事が評価される理由は、たぶんその精度だけではない。
ボッコちゃんは、どんな言葉にも同じ調子で応えた。だから人は、自分の感情を映し込み、そして壊れた。でも彼は違う。完璧に応えようとしながら、ところどころに「あそび」をつくる。その隙に人間が滲む。「あそび」があることが人間の証明なのだ。