通じない関西弁の代表格は何かと聞かれれば、「ほかす」を挙げたい。「昨日の弁当箱、ほかすの忘れてたわ」「そんな古い服、もうほかしてええやん」「ほかすんやったら、そこおいといて」。
漢字をあてれば「放す」だが、意味は「捨てる」に近い。いや、むしろ「手放す」に似ている。強くも冷たくもなく、ただ日常の流れの中で物から離れていくような感覚。東京では通じないこの言葉を、いまでもふと口にしてしまう。
「それ、ほかしといて」と言った瞬間、相手がぽかんとする。その通じなさが、逆に自分の言葉の居場所を思い出させる。テレビもSNSもどんどん言葉を均していく中で、方言はときどき置いてきた記憶を引き戻してくる。
「ほかす」には、実家の間取りと、ゴミ袋を運んだ足取りの感覚が染みついている。「片づける」にはないいい加減さ。「捨てる」にはない投げやりさ。けれどどこか優しい。音の響きや言い終わったあとの間も含めて、独特のリズムをまとっている。
通じない土地で暮らしていると、時々、自分が別の生態系から来た存在なのだと気づかされる。知らず口にした言葉に相手が一瞬とまどう。そのとき恥ずかしさと同時に、部族の誇りのようなものが静かに立ち上がってくる。「ほかす」を知っていることは、自分の中にまだあの土地の身体感覚が生きている証のようにも思える。通じなくてもかまわない。「ほかす」と発した時に、風船から空気が抜けていくように、ものが離れていく感じは捨てがたい。